ニンテンドウ64は1996年6月23日に任天堂から発売された据え置き型ゲーム機で、価格は25000円。
1997年03月17日には16800円に、1998年7月01日には14000円に値下げされました。
スーパーファミコンの次世代機ですが、互換性は備わっていません。
3Dポリゴンの演算能力に優れており、当時のライバルハードだったプレイステーションやセガサターンよりもずっと高性能でした。
当時のライバルハードは全てCD-ROMでソフトが提供されていましたが、
ニンテンドウ64ではスーパーファミコンに引き続き、ROMカセットを採用しています。
それまでのゲーム機にはコントローラ接続端子が2つまでのものが多かったのですが、
ニンテンドウ64には4つ配置されており、多人数でのプレイを重視した構成になっていることが特徴的です。
コントローラには3Dスティック(3Dの読みはスリーディーではなくサンディー)を搭載していました。
従来の十字キーはデジタル入力でしたから、上下左右&斜め4方向の計8方向(45度刻み)にしか操作できませんでしたが、
3Dスティックはアナログ入力なので、微妙な角度(10度とか35度とか)の操作ができるようになっています。
当時はゲームがどんどん3D化していた時期ですから、
そんな時代に生まれた3Dスティックは3D空間を自由に操作できる入力デバイスとして革命を起こしました。
その素晴らしさから、この3Dスティック(アナログスティック)は、
その後のほとんどのゲーム機に採用される程に一般化されました。
1997年4月27日には周辺機器として振動パックが発売されました。
ゲーム中にキャラクターが衝撃を受けたりすると、コントローラに付属された振動パックが振動する仕組みになっています。
この振動機能にはゲームへの臨場感をより高める効果があるのです。
しかし、振動パックの情報はかなり前もって発表していたため、
振動パックが発売されるより前にSCEに振動付きのアナログコントローラを発売されてしまったのです。
しかもそれが振動パック発売の2日前なのですから、何ともいやらしいものです。
ニンテンドウ64はゲーム機戦争においてかなりの苦戦を強いられました。
何と言っても、ファイナルファンタジーやドラゴンクエストがプレイステーションに移籍してしまったことが痛手でした。
特にファイナルファンタジーの移籍発表は致命的で、それ以降サードパーティーは完全にプレイステーション一辺倒になりました。
ニンテンドウ64が発売した1996年には、既に情勢は決まってしまっていたのです。
プレイステーション(1994年発売)から1年半も遅れてしまったことが致命傷になったと言えるでしょう。
性能が低いと思われてしまったこともマイナス要因でした。
(実際にはプレイステーションやセガサターンよりも性能はずっと上ですが)
これは、CDに比べて容量の少ないROMカセットを採用していたことが影響していました。
当時はプリレンダリングムービーが横行していた時期です。
プリレンダリングムービーは、ゲーム機上でリアルタイムで映像を描画しているわけではなく、
あらかじめ開発機のパソコン上で作られた映像をそのまま再生する仕組みです。
つまり、ゲーム機の性能にはほとんど左右されずに、美麗な映像が表現できるのです。
ですから、性能があまり高くないプレイステーションやセガサターンでも高性能なムービーシーンが実現できていたのです。
しかし、プリレンダリングムービーはデータ容量が非常に大きく、
ニンテンドウ64のROMカセットには、プリレンダリングムービーを収めるだけの容量はありませんでした。
しかし、ゲームに詳しくない人はプリレンダリングムービーのことなんてわからないです。
プリレンダリングムービーを見て、プレイステーションやセガサターンの性能は高いと思い、
プリレンダリングムービーのないニンテンドウ64は性能が低いと判断されてしまっていたのです。
開発が難しいハードであったことも問題でした。
かつて、ファミコン発売前のアメリカゲーム市場ではソフトの粗製濫造がおこり、
ユーザーからの信用を失ったことで市場が崩壊しました。
任天堂はこの二の舞を避けるために、一部の有力なメーカーによる"少数精鋭体制"を提唱していました。
ニンテンドウ64の開発が困難であることも、メーカーを厳選するための方針の一つだったのです。
しかし、その困難さ故にサードパーティーから敬遠され、
開発の容易なプレイステーションやセガサターンに逃げられてしまったのです。
それどころか、当の任天堂自身も開発の難しさに悩まされ、
ソフトの発売延期や開発中止が相次ぐことになったのですから、何とも馬鹿馬鹿しい話です。
特にハード発売日以降の3ヶ月間は、どこのメーカーからも1本もソフトが発売されないという非常事態でした。
また、プレイステーションとセガサターンは性能的に近かったので、多くのマルチタイトルが発売されていましたが、
ニンテンドウ64は、性能・ソフト容量・コントローラ形状の違いなど、かなりの差異があったため、
マルチタイトルはほとんど発売されなかったことも、ソフト不足になった一因でした。
(この独自性故のマイナス要因は、Wiiにも通ずるところがあると思います)
しかし、少数精鋭故にソフトのクオリティはかなり高いものが揃っており、
中でも、"スーパーマリオ64"や"ゼルダの伝説 時のオカリナ"などは特に評価が高く、
この時代の任天堂ソフトが一番面白かったと豪語する人も少なくありません。
そういう意味では、少数精鋭も無駄ではなかったのかもしれません。
このソフト不足は最後まで続き、最終的なハード普及台数はわずか554万台に終わりました。
プレイステーションの約1800万台はおろか、セガサターンの約580万台にも及ばなかったのです。
結果として、任天堂はゲーム機戦争において初めてトップハードを逃すことになったのです。
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